【   名   モ   無   キ   花   】  


生まれて初めて、私は恋をした。


恋をした相手―彼は、この地方では知らぬ者のいないほど富豪で有名な緋ヶ家(ひが―け)の御子息だった。


私が彼に初めて出会ったのは七つの頃。その日食べるものにも苦労するほど家が貧しく、そのため奉公に出ることとなったのだが、その奉公先というのがこの緋ヶ家であった。


初めて緋ヶの家の門を潜った時、その光景に息を呑んだのを覚えている。


広大な庭には、整然と整えられた木々や色とりどりの花々が咲き乱れ、緋ヶの自宅は洋風な外観に白亜の壁には汚れ一つ見当たらない。


呆然と立ち尽くしていた私をよそに、召使たちを統括していた侍従長が今後の私の仕事内容を淡々と説明してゆき、その後、私を家人に紹介した。


緋ヶ家の御当主。


その奥様。


御当主様のお母様。


次々と紹介されてゆき、そして最後に、私は彼に会った。


気品ある立居振る舞い、洗練されたお姿。彼の周りだけ他の方々とは違う雰囲気を感じた。


(嗚呼・・・なんて・・・・・・)


彼は、ただの下女見習いの私にお声を掛けて下さったけれど、当の私は、彼の姿に胸がいっぱいになり、声を出すことが出来ず、彼の一つ一つの言葉にただただ頷くばかりだった。


あの出会いから歳を重ねるごとに彼との距離は近づき、そして今や秘密の恋人になっていた。


身分違いも甚だしい恋。誰にも理解されないものだったけれど、彼は私を愛してくれ、好きだと言ってくれた。


周囲には知られてはいけない二人の思いは密やかに、しかし激しく燃え上がってゆき、ある年の暮れ、私たちは駆け落ちをすることにした。


屋敷の誰もが寝静まった子の刻に、町の外れにある樹齢800年と言われる一本松の木の下で落ち合うことにした。








約束の子の刻。


一足先に来ていた私は、一本松の木の下で彼が来るのを今か今かと逸る気持ちを抑え待っていた。


静かな夜だった。


月は雲間に隠れ、辺りは闇が広がっている。凍るような冷風が時折私の頬を撫ぜてゆく。


恐怖はなかった。


愛おしい彼を想い、そしてこれからの2人の未来を考えると、ただの闇など何の恐れの対象にもなりはしなかった。


しかし、どのくらいそうしていただろうか。


とうに子の刻は過ぎてしまったにもかかわらず彼の姿はどこにも見えない。


自分が持ってきた僅かばかりの手荷物を抱えなおし、あかぎれの目立つ手をこすり息を吹きかける。


(一体どうしたのかしら・・・)


仕事のときはもちろん、私事のときでも約束の時間に遅刻するなど今まで無かった彼が、今日に限って遅刻をしていた。


(何か厄介な事でもあったのかしら・・・もしかして、私たちが駆け落ちをすることが誰かに見つかってしまったとか・・・)


駆け落ちしようと言ったのは彼からだった。


次期当主という約束された未来を捨ててまで私を選んでくれたことに、申し訳ない気持ちとどこかそれに安堵していた自分がいた。


表情が曇った私を案じ、彼は私に羽のような軽い口付けをし優しく抱きしめ、何度も「君は何も心配することは無い」と言い聞かせ、私を安心させてくれた。


二人のことを分かってもらおうにも、許してはもらえないだろう事は分かっていた。


随分前になるが、彼が私の肩を抱いていたところを御当主様の奥様に見つかり「自身の分を弁えよ」ときついお叱りを受けたことがあった。


計画がもし見つかってしまったら、きっと二人は離れ離れにされてしまうだろう。いや、離れ離れどころか、もしかすると一生会うことさえ許してはくれないかもしれなかった。だから、誰にも悟られぬよう、ここしばらくお互い息を殺すように生活していた。


誰にも見つからない自身がなぜか私にはあった。そんな根拠など、どこにもなかったけれど。


不安にかられ、自分も緋ヶの家まで戻って様子を見てこようかともと来た道の方へ一歩足を進めた。


ふと、道の先に視線をやると闇が一瞬揺らぎ、人の気配を感じ、私の口から安堵の息と共に彼の名がこぼれた。


「              」


喜び勇んで彼の元まで駆け寄るその時、僅かばかりか空が晴れ、雲間から月がそろりと顔を出してきた。


辺りの闇は幾ばくか霧散し明るくなり、闇の中から恋焦がれた彼の姿が現れる。


現れる――・・・はずのそこに居たのは、見も知らぬ男が一人。ひょろりと上背のある、一見優男のようにさえ見える。男は無表情に私を見下ろしていた。


「っ!あ、あなたは誰?!どうしてこんなところに・・・」


息を呑み、畏怖して上擦った声に小さく男は嘲笑った―実際には無表情で顔の筋一つ男は動かしてはいなかったのだが―ように感じた。


男は何も言葉を発することなく、ゆるりと右手を腹の前まで持ちあげた。そこに握られていたのは刀身が鋭く、月の明かりを浴びて鈍く光る懐剣だった。


逃げる間も、悲鳴をあげることもないまま、男が私の方へ身体を倒すのと同時にその刃も私の胸の中にズブリと入っていった。


赤黒い血を吐き倒れる私。


それを何の感慨も無く眺めていた男は、私の脈を取り虫の息であることを確認すると、そのまま私に背を向けて町がある方とは反対の道の闇の中へと去っていった。


一人残った私。


痛みはそれほど感じなかった。


ただ身体から溢れ出る血が、私の魂ごと流れ出してゆくようで意識がおぼろげになってゆく。


薄れゆく意識の中思ったことは、彼に会えなく良かったということだけだった。もし彼と会っている時にあの殺人鬼に出会っていたら、彼にも危険が及ぶところだった。そうならずにすんだことが何より良かったと思う。


安堵のためか一粒だけ涙がこぼれた。


ふとぶれる視界でさっきまでは暗闇で気がつかなかったのだが、道沿いに白い花が群生していることに気がついた。百合にも似ているようだが、この町でも自分の故郷の村でも見た事のないものだった。


純白のその白さは、花嫁だけが着ることを許される白無垢のようで美しいと思った。


(嗚呼・・・出来ることなら彼のために、私も着たかったなぁ・・・)


もう、それも叶わない。無残にもその夢は、あの男に絶たれてしまったから。


ならば願いたい。


(嗚呼、あの花になりたい)


着ることが出来ないなら、せめてあの白い花になりたい、と。


名前は知らないけれど。


私は彼のためだけに咲く花になろう。そして、


「・・・そ、して・・・あなた・・・の・・・息、災を・・・ね、が・・・う・・・・・・・・・・・・」


それきり、私の意識は闇の中に呑まれていった。

















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