彼のその剣幕に、私は、彼もまた私のことが忘れられずに居たのだとそう感じた。























   【   名   モ   無   キ   花   】   
























「ねぇ、貴方。明日あの一本松のところに行って来てもいいかしら?」


夕食も終わり、ソファに肩を寄せ合い二人の時間を楽しんでいたとき、会話が途切れたあと雪子が彼にそう尋ねた。


それに彼は少しビクリと肩を震わせると暫し沈黙をした後、静かに彼女に聞いた。


「・・・・・・それは、また、突然だね。どうしてまたあそこに行きたいんだい?」


彼女には彼の微妙な声の震えには気づかなかったのか、私の方に視線を向けて話はじめた。


「あの白い花とっても綺麗で、とっても長持ちしているでしょう?もう飾って一週間にもなりますのに、まだ綺麗に咲いていますもの。お客様にも好評でしたでしょ?私、何だかあのお花が幸運を運んできてくれているような、そんな気がしますの」


そう、私は一輪挿し用の花瓶に入れられ、普段は応接室の机の上に飾られている。そこは、彼が仕事で商談に使うための部屋で、よく仕事関係の人や取引先の方、これから商談する相手等々と話をする。私は、彼の為に何も出来ないので、ただ只管この商談が上手くいくようにと祈りながら、また彼の為に美しく見せようと、花の白さは光をも取り込んでなお白く輝くように、花びらはよりよく人に見せられるようにと気をつけた。その思いが通じたのか、彼の商談は次々と決まり、きまってお客様は私を褒めていた。


「ただ、貴方の書斎にあった植物図鑑をお借りしてあの花のことを調べてみたのですが、何処にも載っていなくて名前が分からないのです。行き付けの花屋にもあの花のことを聞いたのですが、やはり分からないとおっしゃっていて・・・ですから、またあの一本松の木のところに行けば、同じような白い花が咲いているかもしれませんし・・・」


と、そう言い切る前に彼の「駄目だ!」という強い口調に彼女の声は途切れた。


「あそこには二度と行ってはいけない!分かったね?」


彼の温厚な気質からは考えられないようなその剣幕に、彼女は何か彼にとって辛い何かがあったのかもしれないと悟り、


「分かりました。2度とあそこへは行きませんし、行こうなどと言ったりもいたしません。・・・お約束しますわ」


そう言って微笑んだ彼女に、彼は安堵のため息をおとし「約束だ」というように彼女の肩をそっと抱き寄せた。


私は、彼のその剣幕に彼もまた、私のことが忘れられずに居たのだとそう感じた。




















あれからまた幾日が経った。


彼女はあれからあの一本松のところへ行きたいなどと言うことも無く、緋ヶ家当主の妻として忙しくしていた。


この別館には、必要最小限の召使たちしかおらず、その召使たちも本館のほうから借り出されてきているようなもので、朝から夕方までしかおらず、夕食の下準備を終わらしてしまうと、本館の方へと戻ってゆく。元々料理好きだった雪子の提案で、夕食だけは雪子の手作りとなっていた。


今日も雪子が夕餉の仕度に取り掛かっていたとき、来客を告げる音がした。


火を止め、ざっと身支度に乱れがないことを確認すると、雪子は玄関の扉を開く。するとそこには、見知らぬ一人の男が立っていた。


「緋ヶ家の御当主さんはいてはります?」


西の訛りのあるその男は、年のころは30の半ばぐらいで、一見優男風だ。ひょろりと上背があり、灰色のスーツに身を包んだその男は、にこやかな笑みを携えていた。しかし、なぜか雪子には、この男があまり良くない者のように感じ取れた。確かに一見紳士全とした佇まいなのだが、どこかしら何か違和感とも言えようか、女の直感とも言うべきか、何かが引っかかるのだ。それに、嘘くさい様に浮かべた笑顔が、その直感に拍車をかける。


「・・・緋ヶはただ今、会社の方に出ておりますが。」


それに「そうですか・・・」と男は逡巡をし、「戻りはどのぐらいになりますやろか?」と次いで尋ねる。


「そろそろ戻ってくる頃だと思いますが・・・中でお待ちになられますか?」


屋敷の中に通したくない、そう思ったのだが無下には出来ず、また、雪子自身が知らないだけでもしかすれば大切なお客様なのかもしれないと思いなおし、そう声を掛けると、


「それはありがたいわぁ!何せ随分長旅やったもんで、ほとほと疲れてしもとんですわ。いやぁ、ありがたい、ありがたい」


そう言って男は、雪子が僅かに身体をずらしあけた隙間へ身をそろりといれてきた。


室内の明かりに照らされて、男の顔立ちが目に入る。漆黒の長い髪を後ろで一つにしばり、顔は面長で白く、目は細く少し目じりが下がって見えるため人の良さそうな感じをさせている。


「・・・どうぞ、こちらです」


そう言って男を
応接室の方に通すと、雪子は台所の方へゆき、茶の準備を始めると、ちょうど彼が帰ってきたのだろう、車の音が聞こえてきた。


慌てて迎えに出、来客がある旨伝えると、彼は訝しげに頭をひねる。


「来客かい?今日はそんな予定は入ってなかったはずなんだが・・・で、お名前は何と言う方だい?」


その言葉に雪子は自分らしくなく、客人の名前を聞き忘れていたことを思い出した。


「すみません、お聞きするのを忘れていました。・・・長旅から戻られてきたそうで、西の訛りがあり・・・」


彼の言葉遣いや特徴を挙げていくうちに、だんだん彼の顔色が変わってくるのがわかった。


「!・・・・・・分かった。今彼は応接室の方かい?」


「はい。そちらの方にお通ししています」


「分かった。それとお茶の用意はしなくてかまわない。彼はすぐに帰るから・・・あと」


硬い表情のまま彼は応接室のある方へ2、3歩いくと振り返らぬまま一言。


「雪は部屋にいなさい。彼が帰ったら呼びに行くから」


それに返事を返すまもなく、彼は応接室へと入っていった。


雪子は、彼の強張った表情に只ならぬものを感じ取った。さっきの客といい・・・何かある、そう思ったけれど、雪子は彼の言葉に逆らうことはせず、二階にある二人の自室へと階段を上り始めた。


























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